2015年06月09日

センター試験廃止による大学入試改革に、教育を変える力はあるか?



昨年、ある教科書会社からの依頼で、今年の4月から使用されるある教科書の教師用指導書にICT教育(Information and Communication Technology)や、KJ法、ボックスチャートといった最近注目されている教育方法の解説を書いた。
また、ついこの間、ライターとして関わっているある私立学園の来年用の入学パンフ制作の際、「このエリアでは他校に先駆けてITC教育やアクティブラーニングを取り入れていく」とのことで、現場の先生方から話を伺う機会を得た。
そんなこんなで教育について考えたので、書いてみたい。

2020年度から、大学のセンター試験が廃止されて新しい試験が始まる。
安倍内閣の下で進められている教育改革である。

先頭に立っているのは下村博文 文部科学大臣で、元教育者だけに一家言があるようだ。

新大学入試ではセンター試験が廃止される代わりに新共通テストとして、科目ごとに理解度を測る「高等学校基礎学力テスト」と、知識がどれだけ身についているか、その知識をどう活用できるかを見る「大学入学希望者学力評価テスト」を行う。
「大学入学希望者学力評価テスト」では「点数」ではなく、「レベル」で成績が示される。「1級・準1級・2級…」とある英検をさらに小刻みにするようなイメージだ。
レベル制の採用によって1点刻みの競争がなくなる。また、センター試験だと当日に風邪を引いて落ちてしまう危険があるが、新共通テストは年に数回行われるので、そのときの調子や運ではなく、本当の実力が問われるようになる、と言う。

新しい「大学入学希望者学力評価テスト」では、数学や理科の問題を英文で解くような問題が出されたり、記述式の問題が出されたりして、今まで以上に思考力や応用力が重要になると予想されている。
また、英語については、「読む」「聞く」だけでなく、「書く」「話す」までできるようにすることが求められる。
そして、面接や小論文による「人物」の評価も重視される。

具体像はまだ示されないが、年に何回かテストを行うとなると、日頃からコンスタントに勉強することが求められるようになるだろう。高校生の部活動には、当然、影響が出ることが予想される。

運動部の生徒の中には、3年の2学期から驚異的な追い上げで有名大学に合格する生徒が少なくない。
それは日頃から自分の弱点を意識化し、どんな訓練をやるべきかを明確にし、運動着に着替えた瞬間、スポーツに気持ちを集中させる習慣を受験勉強に転用することによるが、こうした短期集中・一点突破型の生徒を受け入れる余地は減っていくだろう。
さらに「人生には運も重要であり、1日しかないチャンスを生かす試練も必要だ」とか「今の大学入試は、あれはあれで結構公平だ」という考えもあるだろう。

それでも完璧なシステムなどあり得ないのだから、betterと思われる方向を追求していくしかない。その意味では、改革としてそう悪いものではないようにも見えるが、社会を変えるほどの力はあるだろうか?

             ◇             ◇

日本の教育は、危機的状況にある。

どの大学に入るかが現代の階級闘争となっており、大学受験のために知識を詰め込み、燃え尽きて、大学では遊んで暮らす。
結果、自分の頭で創意工夫のできない、「使えない人間」が量産される。知識はあっても、知恵がないのでは、どうにもならない。
知識の詰め込み型の教育では、与えられた課題をこなすことはできても、自ら課題を見つけて解決する能力を持った人材や、独創的な人材が育ちにくいのだ。

高校はそのくだらない大学入試に備えるための予備校となり、中学はその高校に入るための予備校となり、さらに小学校は…と続く。

「なぜ、勉強をしないといけないの?」と子どもに聞かれて、明確に答えられる親は少ないだろう。「日本の社会で生きていくには、勉強するしかない」と答えるしかない。
大学を卒業したら、大多数は企業に就職する。企業では出世争いに勝ち残り、リストラに耐えなければならない。それが薄々わかっているから、子どもたちが将来に夢や希望を持ちにくい社会となっている。こんな状態でよいわけがない。

教育はいわば「国家百年の計」にあたるが、安倍政権は果敢にその改革に手をつけたことを、まず評価したい。
ただし、内容が評価に価するかどうかは、また別物である。

日本の教育がどこかおかしいことは、識者はもちろん国民もわかっているだろう。
それを正そうとして、共通一次試験、センター試験と、これまで何度も改革が行われ、そのたびに失敗してきた。

「なぜ、失敗してきたのか?」という視点が、安倍首相にも下村文科相にも欠けていれば、また失敗するか、たいした効果を生まないことになる。

             ◇             ◇

過去の教育改革がことごとく失敗してきたのは、実は日本の社会構造と関係がある。

平清盛以降、朝廷があり、武家政権があった。外国人から見れば二重政権であり、それが1000年近くも同居しているなど、理解しがたいだろう。
朝廷は上部にあり、武家政権は下部にあり、上下の構造になっていた。
この上下構造が、日本の社会の特徴である。

朝廷は今日の法律にあたる「律令」を発令し、武家政権はそれとは別の「式目」を定めた。式目は武家の習慣のようなものでのちに法律化していくが、律令は律令で機能し、式目は式目で機能するという状態が続いていった。
上部構造と下部構造は分離しているような、融合しているような、境目が曖昧な状態で、それぞれ機能するのである。

上部下部構造.png

この上下の構造を受験にあてはめると、わかりやすい。

政府の政策は上部構造に、高校や予備校は下部構造にあたる。

点取り主義の弊害を減らすために政府が教育改革を行っても、「いい大学に入った方が有利」という現実がある限り、下部構造である高校や予備校では変化に対応して、なるべくいい大学へ進むことをめざすことになる。

新大学入試に対しても、高校や予備校で対策が進められるだろう。
「テクニックだけでは通用しにくくする」と言っても、人間が考えた問題は人間によって解かれる。結局はトレーニングによって受験にパスする者が多く出てくるだろう。面接試験もまた、自己発信力のトレーニングがさかんになって、つまり誰もが面接上手になって終わりだ。
まあ、飾ることができるのは表面だけで、中身の人間まで替えられるわけではないので、対策にも限界はあるとは思うが…。

ある公立大学の看護学科の准教授をしている友人によると、小論文のほぼすべては、自分や家族が病気になって入院したとき、看護をいかに有難いものと感じたかというものばかりで、そのほとんどはつくり話と考えられるそうだ。高校や予備校での対策が進めば、だいたいそういうことになる。
ちなみにこの友人によると、文部科学省では将来どんな問題が出てくることもわかっていて、新しい独立行政法人を設立して天下り先とするプランも織り込み済みではないかということで、確かにそういうこともあるかもしれない。

             ◇             ◇

教育改革は、本当に難しい。

学問というものは、本来その学問を究めていくこと自体が快である。しかし、受験という不純な目標を設定すると、結局は興味もないのによい点を取ることだけを目的とする者たちを生み出すことになる。
今度の改革では「ゆとり教育の失敗を繰り返さない」という点も配慮されるだろうが、そうするとますます勉強に興味もないのによい点を取ることだけを目的とする者たちを生み出すことになり、本当に学ぶことが好きな生徒は逆に嫌気がさしてしまう、という悪循環に陥っていく。

もちろんどの受験生も保護者も「学問それ自体に興味があります。大好きです」と言うだろうが、仮に「受験勉強をしなくても、志望大学に入れてやる」と言えば、その瞬間から勉強などしなくなるだろう。
本当に学問が好きな者にとっては、メリットなど関係なく、学ぶことが楽しいのだ。
そういう生徒にとって、受験は「虚偽の体制」に見える。真に優秀な生徒ほど受験に意味を見出せず、やる気を失うケースは少なくない。面接試験で、そういう生徒をすくい上げることは可能だろうか?

かつて、明治〜昭和初期にかけては大学受験もいいかげんで、試験官が面接で受験生の頭の程度を推し量り、点数が悪くても、素質がありそうならゲタをはかせて合格させることも多かった。
そこから歴史を動かす人材が多数輩出している。
安倍首相や下村文科相には、その時代を理想とする懐古主義のようなものが感じられる。同じような気持ちは実は私の中にもあるが、当時と現代では受験生の数が違う。膨大な受験生全員を相手にするのは、現実的ではないだろう。
また、すべての面接官に「人を見る目」があるとは限らないし、たとえ「人を見る目」があっても、膨大な受験生を相手にしていたら、疲れてどうでもよくなってくるかもしれない。
下手な面接試験よりも、よく出来たペーパーテストの方が、公平に優秀な者を合格させられる可能性もある。

そうこう考えていくと、新しい受験体制になっても、大きく教育が変わることはない、というのが現実的な予測ではないだろうか?

これから日本は少子化が進んでいく。18歳未満の人口は激減している。それでも世界の動向に埋没せず、存在感を発揮し続けなければならない。
そのためには、できる限り多くの国民を優秀にしていく必要がある。全体を底上げできるなら、するに越したことはない。

ただ、上部構造にある政府がどんなに改革を進めても、現実に合わせて下部構造にある高校や予備校で対策は行われるであろうし、従って受験勉強の厳しさは変わらず、「どこかおかしい日本の教育を変える」ということもできず、高い理想を掲げてもうやむやな結果になってしまうであろうことは、予想がつく。

さて、こう書いていくと身もフタもないが、実は私はそう悲観的には見ていない。
その答えも、上部と下部の二層構造の中にある。

下部構造にいる庶民は現実主義者だ。どの企業の人でも、人間の賢さや才能を大学の名前で測ることはできないことくらい、ちゃんと知っている。その証拠に、就職の際には大学名は見るが、仕事をしていく中で、上の世代は若い世代の中から優秀な者を選んで引き継がせる。それができない組織は、市場から退出していく。

新大学入試でもいい部分は受け入れて、悪い部分は「しょうがないから合わせるが、本当はわかってるんだ」ということになっていくだろう。

             ◇             ◇

<補記>

教育改革も、今よりはよくなる可能性があるのなら、やってみればよい。
人物重視の改革には、現実的な問題はあるにしても、理念としての意味はある。

先にも書いた通り、面接試験に関しては、ある程度までは自己発信力のトレーニングは可能でも、中身の人間まで替えられるわけではないので、私立校と公立校の差も比較的出にくいと考えられる。
面接官が表面的なアピールにダマされてしまうようなら、アウトだが。

ただ、政府の教育改革に盛り込んでほしいものがあるとすれば、それは「誇り」や「倫理観」の養成だ。
以前の記事でも書いたが、電車の中で前の席が空いたとたん、横からすべりこんで座った私立中学の生徒がいた。駅のエレベーターを平気で使う中学・高校の生徒も少なくない。氷山の一角だろう。

こういったことは本来は家庭のしつけの問題だが、子どもを正そうとすれば、まず親をしつけなければならない。それは無理だ。
社会のタガが緩んでいる以上、「押しつけがましい」「スジじゃない」などと言われても、政府が動くしかないだろう。
日本人は建前を重視しすぎる。現状を見て、結果に結びつくことなら、教育改革でもキャンペーンでも、やれることはどんどんやっていくべきだと思う。
posted by たぬたぬ at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする