2016年07月31日

小池百合子氏の東京都知事選勝利から読む、自民党と民進党への批判


東京都知事選は、小池百合子氏が2位の増田寛也氏に100万票以上の差をつける大勝利となった。
今回は舛添要一前知事の辞職を受けた急な選挙で、各党各候補とも準備が不足し、自民・公明・日本のこころを大切にする党が立てた増田寛也氏は実績から見て一定の手腕は期待できるものの、地味で知名度が低くて振るわなかった。
民主・共産・社民・生活が共通候補としたヘンなのは政治や行政には素人で、「政策」の中身は空っぽであり、「淫行疑惑」も出た上に、「伊豆大島など島嶼部でのみ消費税5%」といったトンチンカンぶりで、資質に問題があることを露呈させて自滅していったので、当然の帰結であっただろう。

さて、一般的な解説はテレビや新聞でいくらでも出てくるであろうから、このブログではちょっと違った視点から、今回の都知事選について考えてみたいと思う。
それは保守とリベラルの問題である。

その辺のことについて考える参考として、私の手元に『「リベラル保守」宣言』(中島岳志著/新潮文庫)という本がある。
学者の文章にしては軽いが、その分読みやすい好著で、この本の主張をザックリと紹介すると、次のようになる。

保守思想の祖、18世紀イギリスの思想家エドマンド・バークは、フランス革命の破壊的な熱狂を厳しく批判した。バークは革新主義者の主張する反歴史的・抽象的自由に寛大さが欠落してしていることを見抜いていたからである。その背後にあるのは、「人間は優れた理性で世の中を合理的に設計し、完全な社会をつくることができる」という考え方だ。
このような考え方が大きな欠陥を含んでいることは、社会主義の失敗などからも明らかである。

バークな「人間は不完全な存在であり、ゆえに人間が構成する社会もまた永遠に不完全だ。それでも現実社会を生きて行く上で、安定した平和的秩序はつくっていかなくてはいけない。そのとき、長年の風雪に耐えてきた良識や慣習、伝統といった経験知に依拠すべきである」と考えたのである。

一方、リベラリズムは宗教戦争を繰り返していた時代のヨーロッパで、宗教的寛容を認める思想として成立した。世界観を異にする人々が、違いを超えて同意できる原理こそがリベラリズムであり、真性のリベラルは真理の唯一性とともに、真理に至る道の複数性を認める。

保守とリベラルは矛盾しない。「リベラル保守」という立場が重要である。


               ◇              ◇

このような観点から見れば、保守vsリベラルという図式もそもそもおかしいということになる。
その件に関しては私も同意見であるが、自民党=保守、民進党=リベラルというレッテルが生きているのも、また一面の事実だろう。

ところが、今回の都知事選では自民党=頑迷な保守、民進党=愚かなリベラルという面を露呈させてしまった。
まず、自民党について言えば、「小池氏を応援した者は除名にする」という脅しから、封建的・強権的な体質が明らかになった。

民進党について言えば、適格者とは言えない人物を応援してしまった。
民間社会の常識から言えば、力量が求められる仕事に未経験者を就けることはあり得ない。まず、この点で有権者を馬鹿にしている。
言っていたこともデタラメで、「伊豆大島など島嶼部では消費税5%」などという要望を国が受けつけるわけはないが、もし実現したら「檜原村(東京都)や東北や熊本の町村は5%にしないのか?」といった問題になったであろう。
さらに、現実問題、がんが再発して職務を遂行できなくなれば、再び50億円をかけて都知事選ということになる。
こういった一連のことに本人が無自覚なのは愚か者なので仕方がないとしても、推薦する民進党はどう責任を取るつもりだったのだろうか?

そんな中、自民党の応援を求めず、かと言って民進党のような現実離れした理想主義にも陥らず、ジャンヌ・ダルクのように颯爽と闘うことを演出したのが、小池百合子氏であった。
石原慎太郎氏の「大年増の厚化粧」発言も女性たちの怒りを招き、小池氏への応援につながった。
このタカ派の人物には人間としての面白さはあるが、これまで思慮の浅さから失敗することがしばしばあった。
今回も翌日、小池氏に「薄化粧で来ました」と爽やかにいなされて返り討ちにあい、民進党の蓮舫氏が「女性の化粧のことを言うのは、もうやめましょう」と発言して事態は収束に向かったが、それまでに小池氏に十分な追い風が吹いてしまった。
昔、日露戦争の連合艦隊司令長官として、山本権兵衛は「運がよい」という理由から東郷平八郎を選んだ。それは戦争には合理を超えた何かが働くことを知っていたからであるが、同じような意味で運は小池氏に味方したと言えるだろう。

               ◇              ◇

小池氏の勝因はこれまで自民党の議員として培ってきた保守の基盤に、都民の目線に立ったリベラリズムを加えて演出した点にある。都民は小池氏に、政治家・行政家としての一定の力量があることを認めた上で、「新しいこともやってくれそうだ」という期待を寄せたのだ。

ひるがえって、自民党と民進党について検討すると、自民党は保守であると同時に、改革を進めるリベラルの意識を持っているように見える。それはよいが、憲法改正や安保への姿勢はいささか急進的で、戦後の日本の社会が育んできた民主主義や平和主義といった経験知を破壊してしまいそうな不安定さがある(まあ、動くべきときには、動くことも大切だが)。

一方、民進党は過去から未来へ社会をつなぐ安定性に欠ける上に、具体的な政策を提示せずに自民党の揚げ足取りに終始して、リベラルの名に値しない政党に堕してしまったように見える。

先日の参院選では「自民党には票を入れたくないが、民進党も受け皿にはならない」と言う人が少なくなかった。それは、こうした両党の問題性に対する批判からであった。
今回の都知事選における小池氏の勝利は、自民党と民進党への批判にほかならないのである。

国民は、大筋で「リベラル保守」を望んでいる。
今後は、小池氏の都知事としての手腕が問われるとともに、保守としての自民党、リベラルとしての民進党の真価も、同様に問われていくことになるだろう。

<追記>
私自身も基本的には「リベラル保守」だが、人間は「リベラル保守」を超えて行動しなければならないときもあると考えている。そうでなければ、織田信長の体制改革や明治維新は、無価値になってしまう。
現代という時代もまた、「リベラル保守」を超えて動くべき局面は多々あるように思う。
posted by たぬたぬ at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月11日

民進党が起死回生のために外してはならない「憲法改正」


参議院の定数は242名で、任期は6年。その半数が3年ごとに改選される。今回の参院選では、自民党は56議席、公明党は14議席を獲得し、安倍首相が勝敗ラインに設定した与党の改選過半数(61議席)を大きく上回った。
さらに憲法改正に前向きなおおさか維新の会は7議席を獲得。
改憲勢力は参議院定数の3分の2を上回って与党が圧勝し、野党とくに民進党はみじめな敗北に終わった。

しかし、この困難な状況の中、気づいているかいないかはわからないが、実は民進党は起死回生のチャンスを迎えている。このチャンスを逃すと、もはや回復は不可能と言ってよいくらい重要なものだ。

『三国志』の愛読者なら、「街亭の戦い」をご存知であろう。蜀の軍師、諸葛孔明が部下の馬謖に「街亭を死守せよ」と命じたのにもかかわらず、自分の才気に過剰な自信を持つ馬謖が近くの山に登って魏軍を迎え撃ち、完敗した戦いである。このあと蜀が魏を攻略する機会はほとんど永久的に失われ、孔明は五丈原に病没し、国の滅亡へとつながった。

このチャンスは、いわば「街亭の戦い」にあたる。それは、憲法改正案の作成である。

               ◇              ◇

今回の参院選では、焦点とされたアベノミクスの背後に憲法改正問題が存在していた。岡田代表は「選挙運動中、安倍首相は憲法問題について語ることを避けた」などと批判していたが、大多数の有権者から見れば憲法改正が大きなバックボーンになっていたことは自明であり、岡田代表の批判は言い訳にしか聞こえない。

何にせよ、選挙結果から見れば、民意は憲法改正を望んでいると言ってよいだろう。

ただし、2012年4月に発表された自民党の「日本国憲法改正草案」は決して出来のよいものではない。叩き台レベルであり、むしろ「落第点」と言ってもよいくらいだ。
わかりやすい例としては、次のようなものがある。

第24条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。


「家族は、互いに助け合わなければならない。」と言われても、仲が悪い家もあれば、生き別れになっている家もあり、親子兄弟とも高齢や病気や貧乏で助け合えない家もある。国にとやかく言われる筋合いのものではない。

憲法とは、本来、国家権力という「怪物」を縛るためのものである。それなのに、自民党の草案にはこのように国民に妙な義務を押しつける条文が多く見られる。

もうひとつ、日本国憲法の中で最も重要な第13条を見てみよう。「えっ、一番重要なのは第9条じゃないの?」と思われるかもしれないが、第9条なんて、あってもなくても人権や民主主義とは関係がない。その証拠にアメリカには軍隊があるが、人権は保障され、民主主義も機能している。

さり気なくて目立たない条文だが、西洋の人権思想のエッセンスであり、日本国憲法の中で「これがなくなったら、憲法が憲法でなくなる」というキモの中のキモこそ、第13条である。

第13条の原文  
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


これが自民党草案では次のようになっている。

第13条
全て国民は、として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。


この条文を変更したのは、従来「公共の福祉という表現がわかりにくい」と言われてきたことを受けたものだろう。「公益及び公の秩序に反しない限り」と言うことで、「自分勝手な幸福や利益追求のために、ほかの人に迷惑をかけてはいけない」という意味が明確になる。
確かにその点は改善されているが、反面、人権は「公益や公序を守った上で」ということになって、その下に位置づけられることになりかねない。
また、「個人」という概念には、「ひとりひとりの人間」という意味が込められているのだが、「人」という茫洋とした表現に換えることで、主体性を持つ個人という人権思想の根幹がおかしくなってしまう。

この辺が「自民党案は立憲主義を理解していない」と言われるゆえんである。

このまま行くと、自民党案をベースに改憲の方向性が決められてしまうだろう。そこで民進党の出番があるのである。

               ◇              ◇

今回の選挙では日頃は自民党支持でありながら、憲法改正の方向性に不安を感じて民進党ら野党に票を投じた人も少なからずいたと思われる。そういう人たちも、民進党が頑なに憲法改正を拒むなら、完全に無価値な政党と見做すだろう。
反対に民進党がより適切な憲法改正の草案を提出するならば、「補完政党」としての価値を評価するに違いない。

私は改憲論者であるが、憲法は「変えさえすればよい」とは思っていない。そして、民進党については「リベラルの名に値しない、揚げ足取り政党」と見做しているが、ここで民進党が自民党案のおかしなところをひとつひとつ丁寧に正してくれるなら、次回は票を入れてもよい。

とにかく憲法改正は端緒についた。安倍首相自身も語っているように、これから議論していく段階である。

このチャンスを民進党が生かすことなく、逆に自民党が改憲賛成派・反対派両方の憲法学者の意見をしっかりと聞いて現在の草案の欠点を自ら正していったならば、民進党の出番をなくし、その復活を半永久的に封じることになるだろう。だから、憲法草案づくりは「街亭の戦い」なのである。

民進党の中には、憲法改正に前向きな議員もかなりいると伝えられている。民進党議員の奮起を願って止まない。

<補記>
民進党はいまだに政権政党を目指しているという。しかし、脇役をきちんと演じられない役者に、主役は務まらない。まして、以前に一度、主役を与えられたときに力不足を露呈させて降版したのだから、まずは脇役として力をつけて認められることが、主役をめざす最も確かな道であると思う。
10年か20年、もしかしたら50年以上かかるかもしれないが、それ以外の方法はないと知るべきだろう。



posted by たぬたぬ at 13:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 憲法・法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする