2015年01月08日

なぜ、イスラム圏に民主主義は根づかないのか?



アメリカは第二次世界大戦後、日本を民主主義国化することに成功した。その体験が元になっているのかもしれないが、「民主主義とはこういうものだ」と教えれば、民主主義化していくと考えているようだ。
アメリカ人らしいポジティブで楽天的な考え方だが、完全にまちがっている。

この辺のことについては、小室直樹の著作類が詳しいが、その思考のベースのひとつに社会学のマックス・ヴェーバーがある。
私もマックス・ヴェーバーは好きで、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『古代ユダヤ教』などのヴェーバーの著作はもちろん、大塚久雄や安藤英治といった研究者の著作もノートを取りながら読んだ。
そのため小室直樹の解説はストンと体の中に入ってきて、かえって多くの方々にとって素直に理解されるかどうか、よくわからないのだが、民主主義について、小室直樹の『日本国憲法の問題点』とマックス・ヴェーバーに依りながら説明したいと思う。

憲法とは何か? それはキリスト教の神エホバ(ヤハウエ)と人間のいわば「縦の契約」を、人間と人間の「横の関係」に転換したものである。
初代総理大臣であった伊藤博文は、学者ではないが大政治家の慧眼でそれを見抜いていた。そして、キリスト教の神の「代替」として、天皇を持ち出した。
実際、大日本帝国憲法を制定するにあたって、枢密院の会議で伊藤博文が西洋の憲法は宗教と深く関わっていることを指摘した記録が残っており、このことは伊藤博文が憲法の本質に踏み込んでいたことを意味する。

江戸時代までは「武士には武士の、農民には農民の本分がある」というのが、人々の意識だった。しかし、それでは近代化はできない。そこで伊藤博文は、士農工商という身分の違いを解消させて、「天皇以外の人間はすべて平等」という意識を根づかせるために、天皇を絶対神に据えたのだ。その結果、人間はすべて平等になり、優秀であれば誰でも「末は博士か大臣か」と出世できるようになっていった。
その先では天皇の神格化から敗戦に至るわけだが、伊藤博文が天皇をキリスト教の神に代えるというアイデアを思いつかなければ、日本に資本主義や民主主義が曲がりなりにも根づいていたかどうかはわからない。
もちろん「曲がりなりにも」であって、本当の意味で資本主義や民主主義が根づいているかどうかについては、人により意見があるだろう。
省庁が大企業の経営に立ち入るのは江戸幕府が諸藩の統治に口出ししたのを思い出させるし、丸山真男が「民主主義をめざしての努力の日々の中に、はじめて民主主義は見いだされる」と指摘し、多くの不備が指摘されているにもかかわらず、憲法改正すらできない状況は「深いところで似非に過ぎないのかもしれない」と思わせる。
それでも「曲がりなりにも」機能してきたことは事実なのだ。

こう見て行くと、中国やインドなどで民主主義が根づかず、憲法も機能しない理由が見えてくる。数多くの神々がいて、絶対神がいないからである。
絶対神のいないところでは、契約は必ず守る、仕事の締切は何が何でも守るという意識は、生まれない。約束事はすべてその場その場でものさしが伸び縮みして、「うやむや」になってしまう。
ものの値段は相手によって変化し、約束事を守る・守らないはその時々で気分に応じて変わるのは、宗教がそのようにあるためである。

ここでキリスト教の精神史の一部を振り返ってみよう。キリスト教の絶対神は契約違反を許さない。契約に違反したら人類を滅ぼすのもためらわない恐ろしい神であるが、中世には教会が堕落し、「免罪符を買えば天国に行ける」などと称していた。
これを本来の姿に戻したのは、のちにプロテスタント(抵抗する者)と呼ばれるルターとカルヴァンである。

キリスト教では死んだあと救われるか地獄に行くかは、神以外にはわからない。善行を積んだからといって天国に行けるとは限らないし、犯罪を犯したからといって地獄に行くとは限らない。すべては神の意による。これを予定説という。
それでも悪行を行うよりは、善行を行う方が天国に入れる確率は高いだろう。…というわけで、キリスト教徒は神に気に入られようとして、契約を守り、勤勉に働くことに喜びを見いだすようになった。
この禁欲から逆説的に資本主義が生まれた。資本主義と民主主義はキリスト教(プロテスタンティズム)から生まれた双生児である。
「資本主義ならアジアや中東にもあるじゃないか」と思うかもしれないし、たしかに経済発展は進んでいるが、それは当事者の気分次第で契約はどうなるかわからないものであり、きちんと契約が守られることを前提とする西洋の資本主義とは別物である。

             ◇             ◇

では、イスラム圏ではなぜ民主主義も憲法も機能しないのか?
アッラーは融通無碍な絶対神だからである。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3教の淵源は同じだが、イスラム教はユダヤ教やキリスト教に比べて、寛容な宗教となった。
平たく言えば、誤りを犯しても、謝れば許してもらえるのである。お酒を飲んでも、間違えて豚肉を食べても「ごめんなさい。以後改めます」で済んでしまう(宗派により温度差はあるが)。契約違反に怒って容赦なく人類を滅ぼすキリスト教の神とは違うのだ。
これでは「何が何でも契約を守る」という精神は生まれないし、たとえ憲法がつくられても「一応、つくりました」で終わってしまい、絶対的尺度として機能しない。
そのくせ戒律は厳しく、結果、憲法よりもイスラム法が優先される。このような社会では民主主義も資本主義も憲法も根づかないのである。

それではイスラム圏やアジア諸国は「ダメダメ」なのか?
そうとは言えない。そもそも民主主義や資本主義が「絶対的によい」と誰が決めたのか? 確かに民主的な社会はうまく機能すれば、国民にとって住みよいものになるかもしれない。しかし、ポピュリズム(大衆迎合)に陥る危険もある。
ヒトラーやムソリーニは民主主義の中から台頭してきたし、東条英機以上に戦争礼賛を行った旗振り役はマスコミであったことを忘れてはならない(例によって、とくに朝日新聞はひどかった)。
近年で言えば、どう見ても「ダメダメ」な鳩山由紀夫や菅直人が首相になった背景にはそれなりの民意もあったのである。
そんないい加減な政府よりは名君が治める絶対王政の方が政治も経済も安定し、民衆は幸せかもしれないのだ。実際、江戸時代は平和で豊かな文化が花開いていた。

             ◇             ◇

日本に住んでいると、どうしても西側寄りの報道ばかりが伝わってくる。そのためイスラム教について、マイナスのイメージを刷り込まれてしまいがちだ。
実際、イスラム教徒によるテロはあちこちで起きているし、イスラム国のように過激で残虐な集団もある。しかし、テロには「弱者の最後の抵抗」という側面もあるし、またイスラム国はアメリカへの憎悪から生まれたものであることを忘れてはならない。

まず最初に、イラク戦争はアメリカの国益と軍産複合体の利益のために行われたものであること、そのイラク戦争以降、アメリカはイスラム圏(とくに中東・西アジア)の人々からは悪魔に見えていることを理解しよう。テロやイスラム国はその憎悪の中から生まれてきたのだ。

アメリカはイスラム国の掃討作戦を進め、トップの何人かを討ち取ったようだが、背景は広く深く、根絶させるのは容易ではないだろう。
アメリカの行動の背景には「歴史が進んでいけば民主主義にたどりつくはずだ」という能天気な妄信があるように思われる。そこから「民主主義が根づかないのはおかしな社会であり、やっつけてもかまわない」という意識が生じているのではないか?

実際のところ、キリスト教諸国、および天皇を「代替神」とした日本を除けば、世界中で民主主義や資本主義が機能している国はない(国際交流によって民主主義と資本主義を身につけていったシンガポールや台湾などのわずかな例外はある)。
民主主義と資本主義は、世界史の中に咲いた小さな花のような奇跡なのである。

イスラム圏に憲法や民主主義や資本主義が根づくことは、今後もないだろう。
それは欠陥でも何でもない。ただ、社会構造がそうであるだけなのだ。

一方、日本は民主主義と資本主義の味を知ってしまった。もう、後戻りはできないだろう。

ここに「資本主義も民主主義も機能しない国々とどうつき合っていけばよいのか」という問題が残ることになるが、この点については、国連でよく言われる「多様性の尊重」しかないだろう。無理に民主主義や資本主義を押しつけるのは、よくない。
あたり前と言えばあたり前だが、それぞれの国の歴史や文化や政治体制を尊重し、つき合っていくのである。
             ◇             ◇

ところで、読者はイギリスに憲法がないことをご存知だろうか?
意外に思われるかもしれないが、立憲主義の発祥の地とも言えるイギリスに憲法はない。いまだに13世紀につくられた憲法の原点とも言える「マグナ・カルタ」の一部やら議会の判例やらで何とかやっている。しかし、憲法の精神は生きている。だから、憲法はなくてもよいのだ。
憲法は本質的に経験法であり、制定してもそれを守る精神がなければ守られることはない。一方、守る意識があれば、うるさく言わなくても守られる。
イギリスの場合、文章に書かれていないだけで、憲法は生きている(=憲法はある)のだ。

その点、日本はどうか? 文章には書かれているが、守られているかどうかを考えると怪しい。
たとえば近代以降の国家権力のあり方の基本とされる三権分立も、立法(国会)・行政(内閣)・司法(裁判所)と形だけは成り立っているが、実際のところ官僚が法案のほとんどをつくり、官僚が行政を行い、時には時代劇の代官のように司法的判断まで行う隠れた絶対君主となっている。
そう考えると、日本の社会も日本国憲法も自壊期に入っているようだ。

日本が息を吹き返すかどうかは、これからの憲法改正にかかっているのである。

<後記>マックス・ヴェーバーは社会学の巨人である。また、小室直樹は非常に鋭い博学の学者だった。この辺の話に興味を持つ方は、ぜひ読んでほしいと思う。
ラベル:憲法
posted by たぬたぬ at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 憲法・法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月09日

憲法9条の改正は、第3項の追加が現実的である



日本国憲法第9条(以下、憲法9条)というのは扱いが難しい条項であることは誰もが知っているが、非常に誤解が多い条項である。
その誤解とは「自衛のための戦争を禁じている」というものだ。改正派も護憲派も、ほとんどすべての人がそう思い込んでいる。

「憲法9条は本来、自衛のための戦争を禁じているが、それは現実的ではないので、国には自衛権があり、国際法でも自衛権は認めているという言い訳のもと、自衛隊を運営している」というのが、大多数の人の理解だと思う。
これを「解釈改憲」という。解釈の仕方を変えることによって、ゴマ化しながら事実上改憲したのと同じように扱っている、というわけだ。

しかし、憲法9条は本当は自衛のための戦争を認めているとしたら、どうだろう? 「解釈改憲」という考え方自体が、意味のないものになる。

             ◇             ◇

時は終戦直後にさかのぼる。

1946(昭和21)年2月1日、毎日新聞が「天皇の統治権不変 内閣は議会に責任」という見出しで、日本政府の憲法改正案のスクープ記事を発表した。
これによりマッカーサーは、日本政府の保守性を強く認識した。

2日後の2月3日は日曜日だったが、日本国憲法づくりの中心的人物となるチャールズ・L・ケーディス大佐は呼び出しを受けて、日比谷の連合国軍総司令部に急いだ。待っていたのは、民政局のホイットニー将軍。マッカーサーと数々の戦場をともに戦い、その右腕とも言われた人物だ。
ホイットニーはマッカーサーに、「日本側が改正試案を提出する前に、彼らに指針を与えた方が戦術として優れている」と具申し、マッカーサーは3項目の要旨を示した。これはのちに「マッカーサー・ノート」と呼ばれることになる。

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【マッカーサー・ノート】
天皇は国家の元首の地位にある。
皇位は世襲される。
天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。

国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。

日本の封建制度は廃止される。
貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。
華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。
予算の型は、イギリスの制度にならうこと。
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ケーディス大佐が締切をたずねると、ホイットニーは「今週中だ」と答え、「来週の火曜日、12日に日本側との会談がある。その席上でわたす」と答えた。

軍において、命令は絶対だ。結局、9日間で日本国憲法は作成された。その是非は、ここでは問わない。問題は「マッカーサー・ノート」の2項目だ。
これは日本から牙を抜くためのものと考えて、まず間違いないだろう。

しかし、法律家でもあったケーディス大佐は「自衛権の放棄は現実離れをしている」と考えた。そして、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも」の部分と、「日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」をカットし、「武力による威嚇、または武力の行使は」という文言を前段に挿入した(『日本国憲法を生んだ密室の九日間』鈴木昭典による)。

つまり、次のようになる。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【マッカーサー・ノートの第2項をケーディス大佐が書き換えたもの】
国権の発動たる戦争と武力による威嚇、または武力の行使は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争を放棄する。
日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これが憲法9条の原型になったことは、間違いない。比べてみよう。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【日本国憲法 第九条】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ケーディス大佐はこの作業を、誰にも相談せず、ひとりで行った。「この条項について、皆で議論していたら、1週間かけても結論は出ないだろうと思い、自分一人でやってしまおうと心に決めた」と語っている。

ただし、マッカーサーはこの修正された文章について、元にもどすよう指示は出していないし、日本国憲法に自衛権の放棄を盛り込むよう、要求もしていない。気づかなかったはずがないし、「知らなかった」で済まされる問題でもない。さすがに自衛権の否定は行き過ぎだと考えたと推測するのが自然だろう。
したがって、ケーディス大佐の修正文をGHQの公式見解と捉えることができる。
かなり玉虫色ではあるが、GHQは日本に自衛権の放棄までは要求していなかった、と考えてよい。

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別の観点から考えてみよう。

憲法9条の淵源をたどると、第一次世界大戦後の1928年に締結されたパリ不戦条約に行き着く。多国間で結ばれたが、アメリカの国務長官フランク・ケロッグとフランスの外務大臣アリスティード・ブリアンの間で協議が始まったため、ケロッグ=ブリアン条約ともいう。

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【不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)】
第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。
第2条 締約国は、相互間に発生する紛争又は衝突の処理又は解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する。
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さて、不戦条約締結の際、アメリカ議会でも「自衛権まで否定しているのかどうか」が問題となった。このときケロッグは「自衛戦争は対象外」と述べて、議会を通った。
ということは、国際法的観点からは不戦条約をもとにした憲法9条も「自衛戦争は対象外」とするべきだろう。そうでないと、整合性がなくなる。

こう考えていくと、憲法9条についての「あーだ」「こーだ」という議論のほとんどは、国際法という観点がないことから来る勘違いであることがわかる。

             ◇             ◇

そのような次第で、憲法9条は改正しなくても、正々堂々と「自衛のための戦争」はできるのであり、当然、改正の必要もないことになる。しかし、本当に改正は不要なのだろうか?

私はそうは思わない。
憲法は国民のためのものだ。国民が読んで、自然に理解できる文章であるべきだ。

ケーディス大佐によって書き直されたとは言え、憲法9条の根源には日本から牙を抜こうとしたマッカーサーの精神が息づいている。実際、日本国憲法制定前の国会で、共産党の野坂参三議員が「戦争には侵略のための戦争と防衛のための戦争がある。戦争一般を放棄するのではなく、侵略戦争だけを放棄するべきではないか」と意見をしたのに対し、総理の吉田茂は「近年の戦争の多くは国家を防衛するためという名目で行われてきた。正当防衛権を認めることは、戦争を誘発することになる」と述べて、自衛権を放棄したことを明言している。
(このやり取りは、今日の自民党と共産党の真逆で、面白い。)

吉田茂はのちに自衛隊の前身である警察予備隊創設を機に軌道修正していくことになるが、この時点では総理でさえ「自衛権を放棄した」と受け止めていたのである。

また、不戦条約締結にあたってアメリカ議会がケロッグに説明を求めたのは、自衛権まで否定しているのかどうかが、わからないからだった。

日頃から政治や立法にかかわっている議員でさえ、よくわからないのである。大多数の国民が国際法なんか知らないのはあたり前。私だって25年間社会科の編集者を務め、法律や憲法に関する本にも携わってきたため、多少こういうことに触れる機会があったに過ぎない。

             ◇             ◇

パリ不戦条約は、日本の憲法9条以外にもイタリア、フィリピン、エクアドル、アゼルバイジャン、ハンガリーなど、多くの国々の憲法に踏襲されている。
(護憲派は「世界に誇るべき平和憲法」と言うが、こういう無知は恥ずかしい。上記の国で9条自慢はしないで頂きたい。)

フィリピンの憲法を見てみよう。

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【フィリピン憲法 第2条3節】
フィリピンは、国策遂行の手段としての戦争を放棄し、一般に確立された国際法の諸原則を国家の法の一部として採用する。
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このフィリピン憲法を参考にすればよいのではないか?

憲法9条をまるごと変えようとすれば軋轢は大きくなり、反対者も出て、結局は通らない可能性が大きい。
だからと言って現在のまま放置すれば、普通の言葉で理解できる範囲では、自衛隊が存在する現状との間で矛盾を生じる。
憲法は、国民の大多数に普通に理解できる言葉で記述されることが望ましい。
憲法改正派は戦争をしたいのではなく、普通の言葉で理解できる範囲で生じるこの矛盾を嫌っているのである。

で、あれば、現在第2項まである憲法9条に第3項を加えるのが、現実的な改正ではないだろうか?

<改正案>
第1項
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(第1項はこのままとする。)

第2項
前項の目的を達するため、侵略戦争は、これを認めない。
(「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」は、すでに自衛隊が存在する現状に即して削除。「国の交戦権は、これを認めない」は次に設ける第3項と矛盾するので削除。)

第3項
国際法に基づき、自衛のための戦争は認める。

「こんな感じでいいいのではないか?」と思うのだが、いかがだろうか?
posted by たぬたぬ at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 憲法・法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする