2017年01月27日

天皇退位論議から見えてくる、憲法改正の際に大切なこと


「退位に関する有識者会議」の論点整理が公表された。1月24日の朝刊に載っている。目的は国民の理解を得ることであろう。
というのは、国民の間では、「天皇も人間。高齢で無理がかかっているのだから、退位させてあげればいいじゃいないか」という人情論が優勢である。また、そうした世論を背景に、民主党などが「天皇退位を恒久的に定めるべき」と主張しており、政争の材料にされる懸念もあったからだ。

さて、会議では退位を恒久的に認めた際の問題点の例として、次のようなものが挙げられた。

◎退位を認めると、将来、悪質な政権によって天皇が退位させられる怖れがある。
◎天皇の意思に基づく退位を可能とすれば、憲法が禁止している「国政に関する権能」を天皇に与えることになる(なりかねない)。
◎「障害や高齢などにより象徴としての公務ができない天皇は辞めるべき」とする能力主義となったら、憲法が定める世襲制と相容れない。
◎高齢社会では天皇100歳、天皇を補佐する摂政の皇太子70歳という状況も発生し得る。


なるほど、なかなか難しい。
一方で今上天皇は強く退位を希望されており、早急に法整備を進める必要がある。そこで、とりあえず今回一回限りで退位を認め、「あとでじっくり考えよう」というわけだ。それがいつかといえば、憲法論議にからめることになるだろう。

            ◇             ◇

だが、自民党の改憲案は、あまりよい出来ではない。天皇についても、「問題あり」だ。

【現在の日本国憲法 第一章 天皇】
第1条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第3条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う。

【同 自民党案】
第1条  天皇は、日本国の
元首であり、日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第3条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。


軍国主義アレルギーの人でなくとも、頭の中に「?」マークが浮かぶだろう。
まず、第1条 では「象徴」が「元首」になっている。現在でも天皇は日本の元首の役割を果たしているが、「元首」と書き換えることにより、政治的な色合いを帯びてくる。
私の意見としては、イギリス国王でも何でも立憲君主制の国の国王は実質的に「象徴」なのであるから、「象徴」のままでさしつかえないような気がする。むしろ「元首」は俗っぽく感じる。
また、私自身は日の丸のデザインは気に入っているし、君が代も嫌いではないが、価値観というものは個人の自由であって、ことさら憲法で強制すべきものではないように思う。

            ◇             ◇

日本国憲法の「天皇」について考える際には、「日本人とは何か」「天皇とは何か」に、深く踏み込む必要があるだろう。
司馬遼太郎のエッセイに良質なものがあるので、紹介しよう。

日本史というものを考える上で、天皇さんというのは何だろう、という問題があります。
これは、精神的世界の中心といいますか、血族、血液崇拝の中心であって水戸学的なイデオロギーやマルクス的なイデオロギーで見ず、ひらたく見てゆかないとハッキリして来ない。これがハッキリしないと、日本歴史はわかりにくくなります。
戦国時代のように、世の中が乱れに乱れて、もはや京に天皇さんがおられることさえ知られなくなった時でさえ、全国の土豪劣紳どもが、オレは藤原氏だとか橘氏だとか言っています。もちろんウソなんですが……。(中略)
秩序の中心というものは、そこにあるんですね。そのために、あれだけ乱れた戦国時代もまた一ツ社会にもどる。地上と地下があるとしたら、この血液的な秩序感覚というのは日本人の地下の秩序です。
地上の秩序は関白なり、将軍家なりです。天皇さんは地上の権力ではない。(中略)
歴史を注意してみればよくわかることですが、日本の歴史のなかで、天皇が地上の権力を握ろうとしたときには、かならず乱がおこっています。(『無思想という思想』「手掘り日本史」)


司馬遼太郎は天皇が地上の権力を握ろうとした例として、南北朝時代の後醍醐天皇や天皇を利用した日本軍部を挙げているが、その意味で天皇を「元首」とする自民党案は非常に危険なものと言えるだろう。一方、左派の中には天皇の存在を否定する人がいるが、とても底が浅いと思う。
では、神道とは何だろうか?

思想的民族というのが、世界にはふんだんにいます。しかしながら、日本人はそれに入っていない。日本人は、思想がゼロなのではないかといわれる。が、私にはどうもそうではなく、無思想という思想が日本人の底の底にあるのではないかと思う。(中略)
私はそれをたとえば“神道”ということで考えています。(中略)玉砂利をきれいに敷きつめ、あたりの景色を清々しくしておく。清らかなことだけが、神道の教理といえば教理ですね。
教義らしいものをしいていえば、清らかさをたもってけがれをのぞくということぐらいで、この清らかさあるいは浄らかさは“美しい”とも違います。(中略)神殿を浄めて神主さんがすわっている。それだけでいい。ただひとつ、穢れたものを嫌い、それを忌む心がある。(『無思想という思想』「手掘り日本史」)


この辺まで来ると、天皇の本質が見えてくる。天皇とは、日本人の秩序感覚の中心であるとともに、心の根底に共通する清明心(せいみょうしん/きよきあかきこころ)をベースとした神道という祭祀に関わってくるのであろう。司馬遼太郎は「神主の長」という言い方をしている。もちろん、地上の権力ではない。

            ◇             ◇

「退位に関する有識者会議」の論点整理は、新聞1ページにギッシリと文字が詰まっていた。それを私も社会科の編集者なので3回ばかり読み返したが、正直に言って退屈だった。テーマが「退位の是非」だったので仕方がないのかもしれないが、印象としては町内のマンションの住民会議とあまり変わりがない。
表面的な問題列挙に終わり、「では、どう解決していくか」という積極的な姿勢や天皇という存在に対する洞察が欠けている。

日本国憲法の改正論議の際は、もっと深く踏み込んで考える必要があると思う。
ラベル:天皇退位
posted by たぬたぬ at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 憲法・法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする